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セカイ系の終わり、物語の行く末

タグ:感想系駄文



セカイ系。

セカイ系の物語では年端もいかない一少年が少女と共にセカイを救済する。一少年に謎の力が与えられ、全世界の命運が委ねられる。この物語構造はどこから生まれたのか。エヴァの影響とも言われているが、俺は80年代バブル期までの高度経済成長期の日本人のメンタリティから生まれたものだと思ってます。

右肩上がりの高度成長期に求められたのが国際競争社会においてNo.1であること。偏差値教育が生まれたのもこの時期であるし、誰もがNo.1幻想とでもいうべき方向で、ガムシャラに努力し続けた。結果が、バブル崩壊であった。
このようなNo.1至上主義の中、1970年代に生まれた団塊ジュニア世代は偏差値教育の下に競争を強いられ続ける。人数の最も多い世代でありながら偏差値という物差しで競争させられ、No.1のみが巨大な利権を与えられる。このような日本人の歪んだメンタリティの結果、バブル崩壊とともに訪れたのが平成大不況と就職氷河期であった。
ただでさえ人数の多い団塊ジュニア世代が過酷な偏差値競争を繰り広げた結果が、就職大氷河期であったのだ。まさに踏んだり蹴ったりである。90年代後半から急激に若年層失業者とフリーターが増え、ニートやひきこもりが問題になったのもこのことと無関係ではない。むしろ、こういった社会の歪みが引き起こした必然とさえ言える。

この現実をいち早く感じ取って表現してきたのがエヴァ。市場で勝つ事を要求され続けてきた庵野監督の葛藤が表現されていたのだから、この頃の少年や若者たちに絶大な支持を得たのも当然と言える。これ以降、セカイ系と言われる、少年が突如飛躍して世界のNo.1の力を手に入れる物語が数多く生まれてきた。
No.1になるのなら、生まれつきの能力とかどこかからファンタジー的な能力を得たほうが手っ取り早い。こういった想いから生まれたのが2000年代に流行したセカイ系の物語構造なのである。



当然ながら、物語として歪んでいる。メンタリティそのものが歪んでいたからだ。共産主義者なわけではないけれど、No.1しか認められない社会など、無意味である。スポーツに置き換えてみればこのことは簡単に分かる。いかにNo.1であっても、対戦相手がいなければ無意味であるからだ。
2006年の現代となって、これらの現実に気づいた団塊ジュニア世代以降というのは、物語構造としてもセカイ系を放棄し始めたように思う。俺は2006年が現代の漫画文化のパラダイム転換点と考えているのだけれど、この根拠のひとつとして、ひぐらしのなく頃に、の物語構造が挙げられる。

ひぐらしでは、最も重要なテーマのひとつに、仲間を信じられますか、という事が挙げられる。外界から閉ざされたひとつの村社会で、仲間を信じられるかどうか。仲間と協力することができるかどうか。この考え方というのは、上に述べた80年代バブル思想やセカイ系の幻想とは根本的に異なる。いわば、80年代バブル思想やセカイ系の幻想というのは、言い切ってしまえば最強厨理論と断じてしまう事が出来る。これに対し、ひぐらしの場合は共存がテーマのひとつと言う事が出来る。

セカイ系という物語構造も、もともとは社会の矛盾から生まれたものである。2006年に入って景気が回復し、人々の心理も上向きになってくるとこういった物語構造も必要では無くなってきたのだと言うことができるように思う。ゆえに、最強理論、セカイ系的幻想も放棄し、別の物語を作り始めたというのが2006年なように感じる。


つまり、資本主義社会下において、競争に晒され続ける現代人が、どのように共存を図っていくのかが、現代の重大なテーマなのである。


このことを敏感に感じとって来たのが、ひぐらしのなく頃に、であったり、N・H・Kにようこそ、であるように思うのだ。N・H・Kにようこそについて言えば、この物語では、勝つという方向にはまるで動いていない。むしろ逆走している。ゆえにこの物語は最終的に救済は無いことが予測できる。救済とは天から脱出の為の特殊能力が降ってくるようなものであり、これでは現代社会の矛盾をモデルにしたこの物語のテーマが何ひとつ解決しないからだ。

ポストセカイ系となる物語というのは、このように世界との接し方、共存の方法がテーマとなっているのだ。これは団塊ジュニア以降の世代に特徴的に現れている傾向と言える。


俺は最近、40歳より上、いわゆるバブル世代より上の世代の人とは意見の相違があるな、ということを常々感じる。ハッキリ言って考え方が合わない。バブル世代より上の人というのは、何か競争至上主義みたいなとこが今だ残っていて、この部分が決定的に相容れない。No.1になることがすべてであるかのような考え方。これは一部の若い人にも多いけど。競争を否定するわけではないが、世界は相手あってこそ成立するという部分が抜け落ちている人が多すぎる。他者に対して敬意の無い発言や侮辱するような発言ばかり繰り返す人には、このタイプが非常に多いのだ。No.1に手っ取り早くなるには、相手を殺してしまうのが一番いい方法だし。自分だけしかいない世界の何が楽しいのか、俺には全く理解できないけど。だから、このタイプの人とは決定的に相容れないのだ。


ひとつの例を上げよう。
例えばすばらしい作品があったとする。それに対して、くやしい、と言うか、すばらしい、というか、の差。
どちらがいいのかは神のみぞ知るところであるので置いておいて、くやしい、というのが競争至上主義の人に多く、すばらしい、という人にオタク的な村社会共存主義の人に多い。
俺は、自分が村社会共存型の人間であることに最近気づいたので、このタイプの人間であるのだけど、出し抜かれてくやしい、というよりもリスペクトのほうが先に立ってしまう。これが素直な感情であり、自分の中で正しいのだから修正のしようがない。ので、いやそこはくやしがらないとダメだよ、というタイプの人とは基本的に相容れない。これが年長者に多く、まるで正義のように語られているのが、俺にとってはなんとも不思議なのだけれど。日本社会的に失敗してるじゃん、みたいな。なにが正しくてなにがおかしいのかもまた神のみぞ知るところであるので、俺にも分からない事ではあるけど。結局、自分の感情を信じる以外にはないというのが結論なのである。


上記のような現代社会の構造を踏まえて、セカイ系の物語と言うのは終焉を迎えたように思う。今後このタイプの物語は急速に減っていくだろうし、ヒットすることも無いように思う。2006年という現代において、パラダイムがシフトして、世界との対峙の仕方が求められる時代に入ったからである。現代の世界情勢で言えば、北朝鮮や中国のような完全な他者を、どう受け入れるのか。また、日本社会で言えば社会格差が拡大する社会構造でいいのか悪いのか、プチ貴族階級のような層が生まれて、冨を子々孫々と継承していくような社会が正しいのかどうか。

こういう現代日本から生まれるテーマが、今後の漫画文化の中心的テーマとなっていき、セカイ系や最強理論に変わるような、新たな物語構造が生まれていくことになるのではないかと思ってます。





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